整体までの道のり
わたしは、1972年(昭和47年)5月12日に東京都杉並区荻窪で生まれました。父は青森の田舎から出てきた次男坊でサラリーマン、母は東京生まれの専業主婦、二歳上に姉が一人、家族4人、昭和時代のごくありふれた普通の家庭に育ちました。幼稚園、小学校低学年までは、まわりの空き地でボール遊びや川や田んぼでざりがに獲りばかりをしていた記憶が残っています。近所のガキ大将にもかわいがられて一緒に遊ぶこともありましたが、1人で土いじりや砂遊び、家の中でお絵かきをしていればそれはそれで何時間でも1人遊びをしていたようです。
小学校中学年から私立中学を目指して塾通いを始め、それまでの生活とは真逆で勉強に偏った生活により、強度の近視になり、なれない空調にさらされたせいか慢性アレルギー性鼻炎となり以後長く、季節の変わり目には、喘息様の咳に悩まされることになります。なんとか志望の学校には入学できたものの中学校、高校と長い通学時間と進学校の雰囲気にもなかなか慣れず、当時は読書や絵を描くことで自分の身体と心を守ろうとしていたのかもしれません。
大学に進学してから小さいころから父親に「お前は弱い」と言われ続けた身体を鍛えようと無謀にもやったこともない野球部(体育会準硬式野球)に所属しました。キャッチボールくらいしかやったことがなかったのですが、上下関係の厳しくない居心地のよいチームだったのも幸いし、最終的にチームメートに支えられ、下手なりになんとか試合に出してもらえるくらいになりました。ただ季節の変わり目には必ず体調を崩し高熱を発してダウンする体質まではどうにも良くならず卒業を迎えました。今思えば、無理にお酒を飲んだり、スポーツドリンクや甘いもの、好きなものばかり食べたり食生活の乱れなどが身体の不調へとつながっていることなど頭の隅にも思いも浮かばなかったものです。
社会人になり、就職を決めたのは小さな建具の町工場でした。若気の至りで人にあまり関わらないで済むには職人の物作りだと勝手思い込み、職安の人に「本当にここでいいのですか?」と確認されてお世話になった職場でしたが、仕事に対する姿勢、人に対する思いやりなど、思えばすべてここで教えていただいたと思います。次第に仕事を覚える楽しさ、身体の力もそれなりにつき自信も出てきました。それでも慣れない肉体労働と人間関係のストレス、暴飲暴食を続け、ぎっくり腰で動けなくなったのもまたこの頃でした。仕事を始めて約3年半を過ぎて、自分の身体が徐々に悲鳴を上げているのを感じていました。その後、建築全体を学びたいと転職した会社で、現場監督をしていたときに風邪をこじらせてとうとう現場で倒れてしまいます。高熱と息苦しさで意識が混濁しそうな中たどりついた小さな病院で点滴を受けながら、お医者さんから初めて「喘息と言われたことはありませんか?」と問われ、会社に帰るトラックを運転しながら「なんで自分だけこんな目にあうのか?」と思うのと同時に「このままじゃ長く働くことはできないな」と思い涙を流したことを今でも覚えています。
20代も終わりに近づき別の会社に転職したものの身体がなかなか本調子にもどらず、半年ほど仕事を止めて、たまたま姉がくれた本の著者であった漢方の先生を訪ねました。「漢方だと時間がかかるかな?」また、「通常の薬や吸入器は使ってはダメと言われるかな」と思っていたところお会いした先生が「苦しいのは辛いモノね。漢方と使い分けて長い目で身体を診ていきましょう」と言っていただけたのが、わたしにとっては救いだったのだと思います。長い目で病気と付き合っていこうという気持ちが決まりました。
少しづつ身体の様子が落ち着きをみせ始めた頃。自分の身体をようやく大事にケアして整えようという考え方に変わることができたおかげか新しい会社への転職も決まりました。仕事は、福祉用具(お年寄り、ハンディキャップのある方の生活を助ける道具)を輸入販売する会社でした。上司にも部下にも恵まれ様々な仕事をさせてもらえる日々、収入も安定し海外の取引会社との連絡や出張も少しづつ任されるようになり、勤めも10年近くなり今度は「俺ももう一人前なんだ」というような傲慢さや過信があったのかもしれません。仕事のストレスをごまかすように次第に会社の同僚や友人と好きなモノを食べ、好きなだけ飲むような生活が続いて次第に太りだし、健康診断の数値にも問題が見え始めました。
そんなある日、突然父が入院するとの知らせが母から入りました。それまで病気一つせず、寝込んだこともない父。退職して元気にアルバイトに行っていたはずなのに、ある日職場に向かう途中のトイレで異常を感じた父が病院へ行き検査したところ「食道によくないもの(ガン)があり手術が必要」との診断が出たのでした。私はそれまで信心などまったくなかったのに、初めてふと「神さまなんでもするから助けて欲しい」と願いました。父の手術の日程が決まり、「なんとか自分の力で助けたい」という思いと当然生きてくれるものと思いこみたかったのかもしれません。自然と会社の休みを利用して学べる整体の学校に申込みをしていました。
父は12時間を超える食道ガンの手術に耐え、二か月後無事退院してきました。整体の学校で学ぶと平行して、会社から帰った夜は父と母に施術を受けてもらう日々が始まりました。今から思えば下手くそな施術をほぼ毎日約1時間づつ、よく我慢して受けていてくれていたと思います。手術で背中とお腹を切った父の身体には、直ぐには筋肉のほぐしができなかったので、整体の学校で学んだエネルギーワークやトリガーポイントセラピー(筋・筋膜リリース)など慣れないながらも手探りで行っていました。この時期のことはあんまり記憶に残っていないというのが正直なところです。ガンのこと、代替医療のこと、食事療法のこと、スピリチュアル系の書籍など芸術工学系の勉強をしてきた自分には今まで触れたことのない本もたくさん読み込み、自分の給料の範囲内でできることであれば、サプリメントや家庭用医療機器、温熱機器などにお金をたくさんつぎ込みました。とにかく「生きて欲しい」と必死だったんですね。
手術から2年10ヶ月後、食道ガンが再発した父は、放射線、抗がん剤治療を受けた後に亡くなりました。ただセカンドオピニオンで食事療法の指導をいただき、母が一所懸命想いを込めた料理を摂り続けられたことが幸いしたこともあってか、再発したとはいえ、転移はなく、終末期に入院は3週間、不思議と痛みにほとんど悩まされることなく、次第に食事が細り自然に枯れるようにして亡くなりました。2012年の4月のことです。
気がつけば私も40歳を過ぎようとしていました。2012年の8月に会社を退職、そしてその年の暮れに自宅の一室で整体院を開業しました。思えば自分の身体の弱さを克服しようとしたり、人が嫌で物作りに逃げようとしたり、最後に父が病気になったことを通じて、普通にサラリーマンをして生きていては知らないこと、教えられていないこと、知らされてないことが実は多くあるのではないかということ知りました。食べ物も住宅も医療も教育も「すべて何かがおかしい」そんな感覚でしょうか?
父の病気で一緒に食べ物や生活習慣を改めることができておかげさまで今は喘息の発作も10年近く起きていません。鼻炎の鼻づまりも漢方薬の服用と自分自身の整体の調整などで、つまりが完全になくなり今は漢方薬の服用も通院もしていません。また建具から始まり建築全般を見てきたおかげで、セルローズファイバーの断熱や無塗装の無垢材、珪藻土の壁、生体エネルギー材料を各所に使用した家に出会うことができました。化学物質等の暴露を限りなく抑えた自然素材に囲まれた心地よい施術室で施術をすることができています。
残念ながらわたしの力だけでお身体を一瞬でよくしたり、一回の施術で痛みや辛さを全部取り除くお約束はできません。ただ今の痛みや辛さが一時取ればいいやという思いであるのであれば、薬や湿布、慰安的なもみほぐしに頼り続けていればといい思います。わたしは、そういう方のお役に立てるとは思っていません。
今、目の前に起きている症状、現象は、その人その人の生き方の偏りが出ているのであって、その目に見える事を変えたり、痛みだけを取り除いただけでは現れている症状や現象はまた元の状態に戻って現れてくるはずです。「もしかしたら、自分の生き方に何か偏りや歪みがあるのかもしれない?」そんな思いに至れた時にようやく人間は自分の中に根本の原因があるのではないかと疑い始めます。それでも「周りがおかしい、自分は正しい、間違ってない!」そんな思いに揺り戻され、ゆらぎの中をさまよいながら、身体との対話を続けて自分の中を見つめ始めた時に何か変化が生まれ始めてきます。同時に「全て目の前の起きるすべての出来事の原因が自分にある」(自分が悪いということではありません。過去に自分がまいた種、因が関係の網にからめられ今、縁となって自分の目の前に現れているということです。)そうした意識が自分の中に気づきとなって現れてくるかもしれません。僕は、そうした気づきの中で今の療術の操体法のお師匠様に出会うことができました。
わたしの理想は、わたしの施術を通じて、お一人お一人が自分のからだを自分で整えられる時がくることです。(自力自療じりきじりょう)さらにパートナー、友達、家族までケアしてあげられる(相力想療そうりきそうりょう)ようになれたら最高です。
整体を通じて、お一人お一人の人生が豊かに変わることのお手伝いができればと考えています。
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操体法は埼玉県草加市稲荷の和久屋おひさま整体院へ 電話 048-932-5265(完全予約制・当日予約も大歓迎!)
小学校中学年から私立中学を目指して塾通いを始め、それまでの生活とは真逆で勉強に偏った生活により、強度の近視になり、なれない空調にさらされたせいか慢性アレルギー性鼻炎となり以後長く、季節の変わり目には、喘息様の咳に悩まされることになります。なんとか志望の学校には入学できたものの中学校、高校と長い通学時間と進学校の雰囲気にもなかなか慣れず、当時は読書や絵を描くことで自分の身体と心を守ろうとしていたのかもしれません。
大学に進学してから小さいころから父親に「お前は弱い」と言われ続けた身体を鍛えようと無謀にもやったこともない野球部(体育会準硬式野球)に所属しました。キャッチボールくらいしかやったことがなかったのですが、上下関係の厳しくない居心地のよいチームだったのも幸いし、最終的にチームメートに支えられ、下手なりになんとか試合に出してもらえるくらいになりました。ただ季節の変わり目には必ず体調を崩し高熱を発してダウンする体質まではどうにも良くならず卒業を迎えました。今思えば、無理にお酒を飲んだり、スポーツドリンクや甘いもの、好きなものばかり食べたり食生活の乱れなどが身体の不調へとつながっていることなど頭の隅にも思いも浮かばなかったものです。
社会人になり、就職を決めたのは小さな建具の町工場でした。若気の至りで人にあまり関わらないで済むには職人の物作りだと勝手思い込み、職安の人に「本当にここでいいのですか?」と確認されてお世話になった職場でしたが、仕事に対する姿勢、人に対する思いやりなど、思えばすべてここで教えていただいたと思います。次第に仕事を覚える楽しさ、身体の力もそれなりにつき自信も出てきました。それでも慣れない肉体労働と人間関係のストレス、暴飲暴食を続け、ぎっくり腰で動けなくなったのもまたこの頃でした。仕事を始めて約3年半を過ぎて、自分の身体が徐々に悲鳴を上げているのを感じていました。その後、建築全体を学びたいと転職した会社で、現場監督をしていたときに風邪をこじらせてとうとう現場で倒れてしまいます。高熱と息苦しさで意識が混濁しそうな中たどりついた小さな病院で点滴を受けながら、お医者さんから初めて「喘息と言われたことはありませんか?」と問われ、会社に帰るトラックを運転しながら「なんで自分だけこんな目にあうのか?」と思うのと同時に「このままじゃ長く働くことはできないな」と思い涙を流したことを今でも覚えています。
20代も終わりに近づき別の会社に転職したものの身体がなかなか本調子にもどらず、半年ほど仕事を止めて、たまたま姉がくれた本の著者であった漢方の先生を訪ねました。「漢方だと時間がかかるかな?」また、「通常の薬や吸入器は使ってはダメと言われるかな」と思っていたところお会いした先生が「苦しいのは辛いモノね。漢方と使い分けて長い目で身体を診ていきましょう」と言っていただけたのが、わたしにとっては救いだったのだと思います。長い目で病気と付き合っていこうという気持ちが決まりました。
少しづつ身体の様子が落ち着きをみせ始めた頃。自分の身体をようやく大事にケアして整えようという考え方に変わることができたおかげか新しい会社への転職も決まりました。仕事は、福祉用具(お年寄り、ハンディキャップのある方の生活を助ける道具)を輸入販売する会社でした。上司にも部下にも恵まれ様々な仕事をさせてもらえる日々、収入も安定し海外の取引会社との連絡や出張も少しづつ任されるようになり、勤めも10年近くなり今度は「俺ももう一人前なんだ」というような傲慢さや過信があったのかもしれません。仕事のストレスをごまかすように次第に会社の同僚や友人と好きなモノを食べ、好きなだけ飲むような生活が続いて次第に太りだし、健康診断の数値にも問題が見え始めました。
そんなある日、突然父が入院するとの知らせが母から入りました。それまで病気一つせず、寝込んだこともない父。退職して元気にアルバイトに行っていたはずなのに、ある日職場に向かう途中のトイレで異常を感じた父が病院へ行き検査したところ「食道によくないもの(ガン)があり手術が必要」との診断が出たのでした。私はそれまで信心などまったくなかったのに、初めてふと「神さまなんでもするから助けて欲しい」と願いました。父の手術の日程が決まり、「なんとか自分の力で助けたい」という思いと当然生きてくれるものと思いこみたかったのかもしれません。自然と会社の休みを利用して学べる整体の学校に申込みをしていました。
父は12時間を超える食道ガンの手術に耐え、二か月後無事退院してきました。整体の学校で学ぶと平行して、会社から帰った夜は父と母に施術を受けてもらう日々が始まりました。今から思えば下手くそな施術をほぼ毎日約1時間づつ、よく我慢して受けていてくれていたと思います。手術で背中とお腹を切った父の身体には、直ぐには筋肉のほぐしができなかったので、整体の学校で学んだエネルギーワークやトリガーポイントセラピー(筋・筋膜リリース)など慣れないながらも手探りで行っていました。この時期のことはあんまり記憶に残っていないというのが正直なところです。ガンのこと、代替医療のこと、食事療法のこと、スピリチュアル系の書籍など芸術工学系の勉強をしてきた自分には今まで触れたことのない本もたくさん読み込み、自分の給料の範囲内でできることであれば、サプリメントや家庭用医療機器、温熱機器などにお金をたくさんつぎ込みました。とにかく「生きて欲しい」と必死だったんですね。
手術から2年10ヶ月後、食道ガンが再発した父は、放射線、抗がん剤治療を受けた後に亡くなりました。ただセカンドオピニオンで食事療法の指導をいただき、母が一所懸命想いを込めた料理を摂り続けられたことが幸いしたこともあってか、再発したとはいえ、転移はなく、終末期に入院は3週間、不思議と痛みにほとんど悩まされることなく、次第に食事が細り自然に枯れるようにして亡くなりました。2012年の4月のことです。
気がつけば私も40歳を過ぎようとしていました。2012年の8月に会社を退職、そしてその年の暮れに自宅の一室で整体院を開業しました。思えば自分の身体の弱さを克服しようとしたり、人が嫌で物作りに逃げようとしたり、最後に父が病気になったことを通じて、普通にサラリーマンをして生きていては知らないこと、教えられていないこと、知らされてないことが実は多くあるのではないかということ知りました。食べ物も住宅も医療も教育も「すべて何かがおかしい」そんな感覚でしょうか?
父の病気で一緒に食べ物や生活習慣を改めることができておかげさまで今は喘息の発作も10年近く起きていません。鼻炎の鼻づまりも漢方薬の服用と自分自身の整体の調整などで、つまりが完全になくなり今は漢方薬の服用も通院もしていません。また建具から始まり建築全般を見てきたおかげで、セルローズファイバーの断熱や無塗装の無垢材、珪藻土の壁、生体エネルギー材料を各所に使用した家に出会うことができました。化学物質等の暴露を限りなく抑えた自然素材に囲まれた心地よい施術室で施術をすることができています。
残念ながらわたしの力だけでお身体を一瞬でよくしたり、一回の施術で痛みや辛さを全部取り除くお約束はできません。ただ今の痛みや辛さが一時取ればいいやという思いであるのであれば、薬や湿布、慰安的なもみほぐしに頼り続けていればといい思います。わたしは、そういう方のお役に立てるとは思っていません。
今、目の前に起きている症状、現象は、その人その人の生き方の偏りが出ているのであって、その目に見える事を変えたり、痛みだけを取り除いただけでは現れている症状や現象はまた元の状態に戻って現れてくるはずです。「もしかしたら、自分の生き方に何か偏りや歪みがあるのかもしれない?」そんな思いに至れた時にようやく人間は自分の中に根本の原因があるのではないかと疑い始めます。それでも「周りがおかしい、自分は正しい、間違ってない!」そんな思いに揺り戻され、ゆらぎの中をさまよいながら、身体との対話を続けて自分の中を見つめ始めた時に何か変化が生まれ始めてきます。同時に「全て目の前の起きるすべての出来事の原因が自分にある」(自分が悪いということではありません。過去に自分がまいた種、因が関係の網にからめられ今、縁となって自分の目の前に現れているということです。)そうした意識が自分の中に気づきとなって現れてくるかもしれません。僕は、そうした気づきの中で今の療術の操体法のお師匠様に出会うことができました。
わたしの理想は、わたしの施術を通じて、お一人お一人が自分のからだを自分で整えられる時がくることです。(自力自療じりきじりょう)さらにパートナー、友達、家族までケアしてあげられる(相力想療そうりきそうりょう)ようになれたら最高です。
整体を通じて、お一人お一人の人生が豊かに変わることのお手伝いができればと考えています。
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操体法は埼玉県草加市稲荷の和久屋おひさま整体院へ 電話 048-932-5265(完全予約制・当日予約も大歓迎!)